SUPER GRADUATES

Universal

ART RUSH 代表
岩井邦浩
Kunihiro Iwai
@kuniiwai
—— 今回の作品のモチーフは「五大大陸」とのことですが、エクステや国旗などカラフルで華やかな作品になりましたね。

そうなんです。「五大大陸」というモチーフを思いついたとき、レスリーさんからは「国旗を作って頭に挿せば面白いよ」と言われたのですが、僕はリアルの髪で作品を作りたかったんですよね。
僕はカラーが好きで、自分の強みだと思っているので、そこはやらなきゃと思っていたんです。いまは幸い、シールエクステなどいろいろあるので、とにかく国旗の色をエクステで集めて、それで五大大陸を表現したいなと思っていました。

—— デザインについて、詳しくおうかがいできますか。

もともとひとつの固まりだった土地が地殻変動で移動して、いまの五大大陸の世界ができました。
世界地図を見ると、とくにユーラシア大陸においては、ロシアが圧倒的に大きいんです。それを見ながら「アジアってなんだろう」と考えていったら、「シルクロード」というキーワードが浮かんできました。日本はシルクを輸出してきましたし、「黄金の国ジパング」と言われていた時代もありましたよね。そこから発想を得て、シルクロードを再現しようと思いついたのです。
額の正面に置いた日本の国旗から1本残した白い線がシルクロードで、日本がアジアにつながっていることを表しています。向かって右側のサイドの髪(鬢)は、下の部分にアジアでいちばん大きなロシアの国旗の色(下から赤・青・白)を、その上にウクライナの2色(黄色・水色)を置きました。
下はグリーンと黄色でブラジルを、左側の赤と白のストライプはアメリカの国旗を、その左横に三つ編みをほぐして載せているのは南アフリカの国々の色──太陽を表す赤や緑、ブルーを使った国旗がアフリカには多いので、それらの色を組み合わせて使っています。
ヨーロッパはどうしようかなと思っていたら、レスリーさんから「ここに国旗をつけたら」とアドバイスをいただいたので、フランスやイタリアの国旗を挿したのですが、よかったですよね。要所要所でレスリーさんが的確なアドバイスをくださったので、すごく面白かったです。
国旗の色などは説明しないとわからないと思うのですが、とにかくヘアで五大大陸があるというイメージを表現したかったんですね。これらは必ずしも馴染んでいなくてもいいんです。国家はみんな自国の利益を考えて行動していますし、争っているところもある。もともとはひとつの塊だった五大大陸ですが、それぞれが離れていったことで環境が変わり、それにともなって思想や好みも変わっていって、争いごとの原因である民族ができてしまったわけですから。
そんなふうにさまざまな民族が生まれて、さまざまな思想・性格ができあがっていきましたが、もともと地球はひとつの塊であり、ひとつの民族でした。だから、2カット目の作品では、それらの民族が淘汰されて、いずれまたひとつになっていくというイメージを表現したかったのです。
ここでは世界中の国旗が登場することによって、ウクライナもロシアもなくひとつにまとまった感じが出てきました。
最後のカットは2パターン目のアレンジで、真っ赤な前髪をつけました。最初は違う形で変化をさせようと思っていたのですが、レスリーさんが「バングを赤にしたら」と言ってくれたんですよ。それで、メイクの名取さんと相談をして、目からギリギリのところで幅の広い前髪にしたんです。
赤は太陽の色であり、血液の色でもある。だからこそ国旗の色として採用している国が多いんですが、赤は暖色系で暖かく、ものすごくパワーのある色なんですね。そしてそれは、強い女性のイメージにもつながります。だから、世界が統一されて争いごとがなくなり、それをしっかりした人々──この強い女性が見守っていくというイメージが最後の作品です。強さによって平和を守っていかないといけないという僕自身の考えを形にしました。

—— 今回は「SUPER BIDO」一冊をとおしてのテーマが「celebration」ですが、このテーマと表現なさったこととのつながりは、どのように考えていらしたのでしょうか。

たとえば争いが続いていると、お祝いやお祭りごとができないですよね。それを終わらせて、楽しいときがやってくるという希望を込めたんです。
国家間で争いがあっても、世界中の国がひとつにまとまり、争いごとがなくなって、最後の作品のような一体感を迎えられたら、それはcelebrateできること。
僕はずっとウクライナのことを憂いているので、早く乗り越えて、本当の意味でのハッピーな宴ができたら幸せだなと思って制作しました。

—— 今回の作品のなかで、岩井先生がこだわって作られたのは、どういったところでしょうか。

見た瞬間に、すごい色がきれいで鮮やかだと思いましたね。たぶんそれはレスリーさんのこだわりだと思います。なので、「これに匹敵する作品が自分にできるのかな」と、すごい不安でした。
同時に、今回は総長先生の追悼も込めた特別号になるということで、よけいにプレッシャーを感じていました。卒業後も山野学苑や山野ファミリーのみなさまにはお世話になっていますし、失敗できないなと。
本当にどうしようと思って、いろいろと考えた挙句、とにかく断捨離をして、家のなかもきれいに掃除して。神さまはきれい好きで、汚くしているとダメなんですって。だから「掃除をしよう!」と決めて、2週間くらいかけて断捨離をし、とにかく掃除をして、きれいにして、というのを心がけていました。
撮影当日に成功するためには、それまで自分が清く正しくあって、ちゃんと神さまに味方になってもらわなきゃいけない。そうでないと、アイデアも降りてこないと思ったんですよ。古いものを捨ててきれいにしていくうちに、ちょっとずつ運気がよくなってきたのかなという感じがしましたね。
撮影まではいろいろと山あり谷ありで苦労しましたが、それも修業だったなと思います。今回は撮影に向けて取り組みましたが、人生においてもそういうことが大事なんだなと感じました。ですから、これからも掃除は続けていこうと思っています。

—— では、ここからは作品や撮影以外のことについてうかがいます。なぜ美容の道に進まれたのでしょうか。

うちの父は、もともとは石垣を作る職人だったのですが、お肉屋さんを始めたんですよね。それで長男がその店を継ぎ、次男が中華料理の道に進んだのですが、たぶん僕は次兄と同じところに勤めるとぶつかり合うと思ったんでしょうね。父と一緒にお風呂に入ったときに「おまえ、これからは美容がいいんじゃないか」と言われたんですよ。
僕自身はその頃は理数系が得意だったので、英語とかを勉強したいなと思っていたんです。高校受験のとき、もっと上の学校に行きたかったのに「ここを受ければ」と言われた学校を受けて進学したのですが、それがすごく悔しかったんですね。だから、高校時代はすごく勉強したんです。
ただ、器用だったので、時計を分解して組み立てたりもしていましたし、理数系が得意な美容師がいていいんじゃないかと思ったんですよね。たとえばカラー剤などは、パーセンテージで配合したりしますから。

—— たくさんある学校の中で、山野美容専門学校を選ばれた理由はなんでしたか? また、当時の思い出などお聞かせください。

我々の時代は山野しかなかったんですよ。父も「山野美容専門学校に行け」と言っていましたし、美容学校と言えば山野、という感じでしたから。
学生時代の思い出は、めちゃめちゃありますよ。昔、三波伸介という方がいて、その人が出演する「凸凹大学」というバラエティー番組の撮影を山野ホールでやっていたことや、先代の山野愛子先生が考案された美容体操をしたこと。藤井先生という名物先生に、「岩井! 姿勢が悪い!」「背中を伸ばせ!」とよく言われていたのも、強烈な思い出です。
当時は1年制だったのですが、学生代表で、国家試験のリフトカールをステージ上で披露したりもしました。じつは家内も山野美容専門学校の同期で、同じクラスだったんですよ。

—— 奥様もOGなんですね。山野美容専門学校を卒業されてからは、どのようにキャリアを築かれていったのでしょうか。

卒業後は、松井東夫美容室に就職しました。毎日23時半くらいまでサロンで練習して、寮に帰ってからまた練習してという生活でした。その後、親戚のサロンを少しの間手伝って、社会人5年目の25歳のときに家内とふたりで独立しました。
家内とは、山野美容専門学校で同じクラスだったのですが、名前だけは知っているという関係で、当時はとくに交流もなかったんですよね。でも、同じ松井美容室に就職して、それから付き合うようになったんです。
勤め始めたインターンの時期は本当に大変で、よく公園のベンチで家内の背中を押してあげたりしていました。また、僕がウエラさんのワインディングコンテストに出たとき、すごい練習をしたにもかかわらず、本番では緊張してしまって納得のいかない結果になってしまったことがあったんです。それが悔しくて、仕事が終わった21時から始発が走り出す5時まで、ずっと練習をしていた時期がありました。そのときによく家内が来て、練習で使うペーパーを広げていってくれました。おかげでワインディングを自分のものにできたんです。
そんなふうにふたりで切磋琢磨しながら働いていたので、気づいたら松井美容室でもお互い2番、3番の売上を上げるようになっていました。ですから、独立することになってもとても心強かったですね。

—— 独立してすでに37年とのことですが、ご苦労なども多かったのではないですか。

そうですね、美容バブルのような時代もありましたし、ピークのときには従業員が50人くらいいた時期もありました。表参道にあったサロンは、太陽光を取り入れたり、スイッチひとつで曇りガラスが透明に変わるものを置いたりと、1億円くらいかけていろいろなことをやりました。
でも、そんなに簡単にはいきませんよね。当時、毎月200万円のお家賃を支払っていたこともあり、青山は撤退して向ヶ丘遊園に物件を買いました。家賃で払うものは消えていってしまうので、ちゃんと身になるようにと、会社自体を方向転換したんです。
向ヶ丘遊園店は、いまは最初に購入した店舗と線路を挟んで反対側にある「アトラスタワー」という高層マンション内にありますが、そのほかに多摩センターと稲城とで3店舗あります。多摩センターは71坪とかなり広い店舗ですし、稲城は1階がサロンで2階がトレーニングルーム。どちらも自社物件ですから経営的にはすごく楽になりました。
37年続けてきて、成功と失敗を繰り返して、やっと自分の身についてきたこともありますし、これからまたがんばれる、もうちょっとよくなるかなと思っています。

—— 美容師としてのこれまでのご経験で、とくに印象的なことはありますか。

いちばん面白い経験をしたのは、ヒカリのシザー製品のデモンストレーションをニューヨークでやったときですね。
美容師と理容師がそれぞれ4人ずつステージでショーをやることになったのですが、モデルが来なかったんですよ。全部で30人くらいに絞っていたんですが、そのうちのひとりが来なくて、人数が足りなくなってしまったんですね。
なので、モデルエージェンシーに「なんとかしてくれ」と詰め寄ったら、7番街の26ストリートに連れて行かれて、「MODEL WANTED」と書かれた紙を渡され、「モデルハントしろ」と。できるわけがないじゃないですか(苦笑)。でも、とにかく声をかけるしかない。
とはいえ、その日に仕込みに来れて、翌日の本番にも来れる子はいないんです。3時間経っても誰も見つからない。さすがに「そろそろ帰りましょうよ」「もう無理ですよ」ということになったんですが、「いやダメだよ、俺は絶対にここで諦めないからね」と。そうしたら、たまたま日本人留学生の女の子が4人、地下鉄の出口から上がってきて、声をかけたらモデルをやってくれることになって……。
このときモデルをしてくれた子は僕ではなく、コンテストに出場する方が担当したんですが、なんと世界チャンピオンになったんです! しかも、後にうちで「ARTIZEN」というヘアアイロンの会社と取引をすることになったとき、そのモデルをした子が通訳をしてくれることになったんですよ。
だから、「あのニューヨークの街角で大変な思いをしたことは、知人とつながるために神様がくれたチャンスだったんだな」と思っています。
大変なときに諦めないでやると、必ずご褒美がもらえるというのを、身をもって体験したわけです。

—— 実際にご経験されたことですから、諦めないことが次につながるという結果にも重みがありますね。また、今回の撮影ではカラーにこだわって作品を作られていましたが、プロになられてからも研鑽を積んでいらしたんですか。

昔マイアミで行われていたアメリカ最大級のヘアカラーセミナーである「ヘアカラーUSA」に10年間通って勉強しました。そこでは朝8時半から夜10時まで、3日3晩ずっと勉強するんです。
ああいうセミナーって、1回目は「わぁ、すごいな!」というだけなんですよ。でも2回目には「去年とここが違うな」と思うようになって、3回目になると「こういう傾向が見えるな」とわかってくる。
そういった経験を重ねて「きっとこういうふうになっていくんじゃないか」「これから日本でもこういう薬が必要になってくるな」と考えられるようになってきた頃に、ミルボンさんからお声がけいただいて、カラー剤の開発に携わることになりました。
1年間ミルボンさんに通って、研究員の方と一緒に、モデルさんたちを使って退色経過を見ながら試行錯誤しましたね。隣り合った色を混ぜたら真ん中の色がポンと出るように色配置を作って、その色を薄めたら淡くきれいになっていく。それが「マイプレール」というカラー剤で、100億円売れたんですよ。ほかにも、くすませるための濁り剤も作りました。それまでそういうものがなかったので。
僕は、この世にすでに存在しているものには興味がないんです。今回の撮影もそうですが、作品はその場で作って考える、オリジナルのものですよね。ときには部分的に人の真似をすることもありますが、トータルで考えたら絶対にオリジナルでなければいけない。
今回のモデルさんにも「あなたのアイディアは面白いね」と言われましたが、そういうふうに、新しいこと、オリジナリティがあることを考えるのが好きなんだと思います。

—— それでは、ご自身のなかでこれから叶えたい夢や、やりたいことはありますか。

みんなでドレスアップをして、音楽や食事を楽しむ機会を作りたいと思っているんです。クラシックコンサートでもヘアショーでもなく、モーツァルトの世界のような楽しい宴の世界です。
ドレスアップすると、それだけでテンションが上がって楽しくなりますよね。我々美容師がヘアを担当してみんながドレスアップし、音楽家の方は歌や演奏を披露する。お酒を飲みながらおいしいものを食べて、全員が楽しめるパーティですね。
美容師や音楽家はボランティアで参加して、その分のお金は寄付に回すことができたらいいなと思っています。2022年の春にも東北地方で大きな地震がありましたが、そういうところに寄付できたらいいですよね。
また、レストランもまだコロナの影響で、人が来なくて困っているんですよ。もう政府は行動制限を解除していますから、困っている飲食店を応援することにもつながりますし、参加者は食事も含めて楽しい時間を過ごせる。そしてそれが、被災地などに還元されたらいいなと。
もちろんそこでの美容の力はとても大きいと思っています。ヘアやメイクできれいになると、みなさん本当にテンションが上がるんですよね。楽しんでいただけて、喜んでいただけるというのはすごくうれしいことです。
我々の技術は減るものではないですし、ご自分で整えるのが大変なことも、ササッとしてあげることができる。美容師は、みなさんがハッピーな人生を送るための手助けができるんですよね。
美容の力というのは本当にすごいものがありますし、それによってさまざまな方に豊かで幸せな人生を送っていただくことこそが美道なんじゃないかなと思います。

—— 最後に、これから美容業界を目指そうと思っている若い人たちに、アドバイスをいただけますか。

経験してきてわかることは、なんでも挑戦したほうがいいし、できることはどんどんやったほうがいいということ。チャレンジしていって欲しいですね。
あとは「トイレの神さま」じゃないですけど、周りをきれいにすると運がよくなってくるので、自分のために時間を作って、きちんとお掃除をするといいと思います。とくに男性はトイレを、女性は台所の水周りを。洗面台でもいいと思いますが、それを心がけるといい機運が出てくるそうですから。

—— 長時間の撮影、お疲れさまでした。また、ユニークで楽しいお話をありがとうございました。

「SUPER BIDO」は、初代山野愛子が提唱した「美道5大原則」の理念にのっとり、美容の理論と実践を通して、変わりゆく多様な文化の足跡を残すべく立ち上げたプロジェクトです。世界で活躍するアーティスト、山野学苑OBや在校生の作品のほか、同学苑で行っているさまざまな取り組みをご紹介しています。また、各界で輝くさまざまな人々を「美容」というキーワードで繋ぎ、盛り立てていくことで、美容業界の発展に貢献することを目的としております。

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