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Interview with HANJEE

HANJEE
@hanjeehanjee

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レスリーと撮影前に話していたのですが、ファッション業界ではクライアントなども入…

Comments from Yuka Washizu

今回の撮影は、1930〜40年代のイメージでというお話をうかがっていました。前半は…

—— 今回のテーマは「celebration」ですが、このテーマをどのように作品に込められましたか。

レスリーから「ひとりの女性を”マスキュリン”と”フェミニン”のふたつに分けて作りたい」という大きな題材をいただいたんです。そこからテーマについて考えて、「celebration」という単語から、ゴージャスとかロマンチックという時代性を思いつきました。
僕は30〜50年代のものに「celebration」のニュアンスを感じるので、それで作ったのが今回の作品ですね。

—— 今回、6パターンの作品をお作りいただきましたが、どういうことを意図して作られたのでしょうか。

表紙でも使われているカラフルなウィッグのものは、40〜50年代のアメリカンを意識したアレンジです。少しボリュームを減らして、ウェーブ感を出しました。時代性的にこういうクレイジーな色を出したほうが、若い子たちが興味持ってくれるかなと思って。

もうひとつの表紙で採用されているものはもっとロマンチックで、20〜30年代の女性像です。意識してフィンガーウェーブを作ったのですが、あれはすごくきれいなフォルム、ラインを作らないといけない。難しいものを崩して作るスタイルにトライしました。赤いヴェールをかぶったものは、同じもののアレンジバージョンですね。

アップスタイルのものは50年代を意識していますが、面白いのは前髪ですね。あえてジリジリに、ややフルエッジのヘアスタイルに作ってどれだけきれいに見せるかが、自分のなかでのチャレンジでした。黒人の方のテクスチャーはこういうカーリーですが、それをウエットにしたスタイルを取り入れたのです。少しフューチャリスティックなフォルムも入れているので面白いなと思います。

スーツ姿のものはマスキュリンな方向、男性像として作りました。マスキュリンのヘアはオールバックや髪の毛を後ろになじませるスタイルで、そのうえで前髪や生え際の毛を垂らすのですが、そうではなく、というのが自分のテーマでした。写真では見づらいのですが、真んなかのほうから取って前髪にしているのです。気分的には、40年代のハードワーカーというイメージで作っています。

最後のスタイルは、メイクを生かすためのヘア。メイクも衣装も、折り紙のイメージだなと思ったんですが、折り紙は一度作ったあとに広げると折線がつくじゃないですか。そういうイメージの、顔が強調されるメイクかなと思ったので、ヘアは引き算にしたほうがいいと考えました。

ヘアとメイクは、コンビネーション。料理でも、色とりどりの野菜を使ったものなら白いお皿がいいとか、バランスが大事ですよね。ヘアメイクも同じように考えると、よさが見えてきます。撮影後にはレスリーも「すごい久々だよ、こんなロマンチック!」と喜んでくれました。撮りたい女性観を撮らせてもらったと言ってもらえて、うれしかったです。

—— ありがとうございます。ここからは、ヘアアーティストになられた経緯をお聞かせください。

高校1年になった頃、親父に「将来何になりたいの?」と聞かれて、「美容師になる」と。それで大阪の美容学校に入学したのですが、いま思うと本当にバカなことに、卒業する前にタバコを吸っていたのがバレて退学になりそうになったんです。成績はよかったので、いい美容室に就職できるはずだったのが、一気にいちばん下になっちゃって。

でもそれが運命だったんですね。入社した別の美容室に、東京から来た美容師さんがいたのです。その人から「東京にはふたつのパターンの美容師がいる」と教えてもらいました。ひとつは、PEEK-A-BOOの川島さんのような、カットでスタイリングを作っていく美容師さん。もうひとつがヘアメイク。「ヘアメイクはメイクもするけど、ヘアはカットはしないで、スタイリングで作っていくんだよ」って。そこでヘアメイクという仕事に出会って、なろうという意識が出てきました。

それで、大阪の心斎橋にあるヘアメイク事務所の美容室に転職したのがこの道の始まりです。そこでヘアメイクのイロハを教わりながらメイクの学校にも通ったのですが、メイクの先生から「東京にはアシスタント制度があって、先生からメイクを教わる」と聞いたのです。授業料を払わずに学べると聞いて、すぐに学校を辞めて東京行きの新幹線に乗りました(笑)。東京に来て、最初はヘアメイク事務所に面接に行ったのですが、昔は4月に入社して3月に退社するシステムだったのです。それを全然知らずに8月に行ったら「ダメダメ、もういっぱいだ」「そんなにやりたいなら、とりあえず東京に住め」と言われて、「じゃあ東京に住もう!」と。

当時、表参道に友だちの家があって、面接のあと、そこに向かう途中にSHIMAがありました。「SHIMA……なんか聞いたことあるな」と思って、入り口にあった公衆電話から電話をかけたら「どこから電話してきているの?」と。「いまはSHIMAの前にいます」「面白いやつだな。じゃあ上がってこいよ」と言われて階段を上がっていったら、運よくインターンの空きがあった。当時、20歳だったのでインターンは終えていたのですが、もう1回インターンをすることで入れたのです。運がよかったんですね。それで、「せっかく入ったからには、ここでカットを覚えたほうがいいな」と思って、ひととおりカットを覚えて、お客さんをフリーでもらう手前──自分がお客さんを連れてきたらカットできるぐらいまでになりました。

その頃、知り合いが広告フォトグラファーを紹介してくれ、さらにその方が関哲也というヘアメイクアーティストを紹介してくださって、関さんのアシスタントとして入れることになり、SHIMAを退職したのです。

—— 上京してSHIMAに約2年間、その後ヘアメイクのアシスタントとして約2年を過ごされて、24歳でフリーに。その頃はどんなお仕事をされていたのでしょうか。

芸能人とか、雑誌の仕事をしていました。関先生は芸能人を担当することが多かったので、独立後もすぐに芸能系の仕事の依頼をいただいて。でも、僕はファッションがしたかったのです。「このまま日本にいても芸能人ばかりやっていく感じだから、海外に行って裸になって、0からファッションを見たい」と。海外に出ることによって、1度自分の経歴をリセットするような目的があったんですね。

また、アシスタント時代から「これからは絶対に英語がしゃべれないといけない」と思っていました。それで、フリーになってからはお金を貯めて、師匠に「イギリスに留学したい」という夢を話したら、気持ちよく送り出してくれました。それが、26歳のときですね。ロンドンでは刺激的な日々でしたね。映画のワンシーンのようなできごとが毎日ありました。だから、ホームシックになる暇がない。一生ここにいられたらいいなと思いました。ただ、日本人とばかりつるんでいたせいか、英語は上達しませんでしたね。いまもあるのかもしれませんが、当時のイギリスには見えない人種差別がありまして。英語をしゃべれないというハンディもありましたし、ハードルがすごく高かったです。

—— ロンドンでは、どのようにしてキャリアを重ねていらしたのでしょうか。

最初はフォトギャラリーに「作品撮りのヘアメイクします」という貼り紙をしていました。当時、サラ・ムーンやニック・ナイトなど有名な写真家が作品を展示販売しているギャラリーがあって、そこに自分の希望を貼っておけば、向こうからピックアップしてくれるという情報を聞いたので。有名な方々の作品が展示されているので、業界の方たちがたくさん見にくるんですね。
それをきっかけに、月に1〜2本くらい仕事をするようになったのですが、半年後くらいには仲よくなったフォトグラファーから仕事をもらえるようになりました。とはいってもギャランティーは、晩ご飯代とか、せいぜい2〜3日のご飯分くらいだったんですけどね。
当時はSNSなんてなかったので、いわゆるクチコミです。それでいろいろな仕事をしていくうちに、どんどんつながりが広がっていきました。

でも語学力がないから、コンタクトの力がない。あの頃の教訓に、「言葉を覚えなきゃいけない」というのがすごくありました。語学は、目の上のたんこぶでしたよね。毎日「よし、本を開け!」「本を読め!」と自分に言い聞かせることの繰り返し。でも、そんなふうにいつも目標を抱えて生きているほうが、人生に面白みがある。「この問題を解決する方法はなんだ?」と考えるようになりますし、技術や実力が上がっていけば、往々にして希望につながっていく。それがわかっているから、また本を開くことができる。

いま振り返ると、たしかに行動力はあったかもしれません。思いついたらすぐに動いていましたからね。ただ、そんなことをしているうちに、お金がなくなってきたんですよ。最後に30万円くらい残ったところで、「もう二度とヨーロッパには来ないかもしれないから、パリに行こう」と考えて、パリでの貧乏生活が始まりました。パリはきれいなんですよ。建物も光も、人もすごくきれい。これは確かに、センスが磨かれるなと思いました。

パリにいると、自分の”憧れ”がしっかり見えてくる。テイストは違いますが、日本と同じく四季もありますし、食事もおいしい。生活が楽しい、というところからパリが始まって、気づいたら合計12年が経っていました。パリでもギャラリーを回って貼り紙をして、そこからテストが始まり、事務所が見つかって、ワークビザが取れて……前しか見ていなかったからできたことかもしれませんが、パリは、自分にとってはもう故郷です。友だちもいっぱいいますしね。

──東京やロンドンでは、どちらかというと街の喧騒やリアルタイムでの文化に刺激を受けられていた印象ですが、パリは建物や光、歩いている人など、ただそこにあるものや、歴史があるものに惹かれたのかなという印象を受けました。

そう、パリでは歴史と自分の生活が共存しているのです。僕が住んでいたアパートの階段は400年前の壁だったので「400年前の人がここを触ってたんだ」と思いながら、当時の人たちの様子──ヘアやファッションを想像していました。普段買い物をするスーパーやオフィスなどもそんな感じ。だからこそ興味も湧いてきますし、文化も勉強しなきゃと思うようになるわけです。

文化や歴史に触れると感覚がどんどんロマンチックになっていくんですよ。センスも人間も、変わっていく自分を感じましたね。だから、生活って大切です。東京は、新しいものにとってはすごくいい街かもしれないけれど、クリエイティビティには難しい街じゃないかなと思うんです。新しいからこそ、想像するのが難しいんですよね。

—— 行動することでさまざまなつながりができ、気づきや学びがあっていまに至っているんですね。

あと、運もあったと思いますよ。たまたまアーティスト撮りをしたフォトグラファーに旦那さんを紹介してもらったら、エリートモデルのブッキングをやっている人だったり。そこから、当時すごく有名な「ATLANTIS」というエージェント──ジュリアン・ディスやヤニック・ディス、リンダ・カンテラとか、90年代のパリコレの80%ぐらいを担当していたヘアアーティストが所属している事務所を紹介していただいて、トントン拍子にショーのヘアアシスタントをすることになりました。

ショーは当時は7日間ぐらいで、1日約10のメゾンが発表するのです。現場に行くと、チーフがブロー、ドライ、アイロンとひととおり見本を見せて、「わかった?」と。年季の入ったアシスタントはすぐにモデルを捕まえて、ヘアを始める。僕はそのアシスタントのアシスタントとしてついて、「こうやってテンションを入れるんだ。こういう角度なんだ」「最後はこのプロダクトか。へぇ〜」って。そうこうしているうちに、モデルもどんどん来るから、自分もモデルを捕まえてヘアを作る。できあがったものをチーフに見せに行くと、ちょっと直されて「これでいいよ。OK」というのを1日3〜4メゾン、7日間やるのです。10分前に見たことを、10分後には再現しないといけないわけですから、毎日心臓バクバクでした(笑)。

ショーが早く終わった日は、次の日のショーでチーフをやる人のアトリエに行って、かつら作りをする。学ぶ機会が毎日ありました。そんなわけですから、技術は日に日に上がっていくんです。いまみたいにスマホもなかったので、気軽に動画や写真を撮るわけにもいかない。記憶とデッサンしかないんですね。ですから、「覚えよう!」という意識も当然高くなりますし、身につくのも早かったと思います。

会話は全部フランス語で、モデルの相手をしながらアシスタントの仕事もする。緊張しながら、勉強しながらの日々だったので毎日ヘトヘトでしたが、自分でもすごく成長したような気がします。

そのうち、有名なヘアアーティストから「今度ロンドンでショーがあるから手伝って」と言われるようになり、ロンドン、ニューヨーク、ミラノにも行きました。ショーに参加したことでつながりも増えて、アンテナが広がりましたよね。情報交換をする相手が増えるので、ネットワークも広がっていきましたし、大変だったけれど、本当に面白かった。すごくいい思い出です。

—— 最初は原宿で広げていった人脈が、ロンドンになり、パリになり、世界になっていったわけですね。世界でお仕事をされていると、日本と海外の違いを感じられると思うのですが、どういったところで感じますか。

回答になるかわからないけれど、街のカラーがあるんですよね。それは「何が優先されるか」ということ。お金なのか、技術なのか、センスなのか。

たとえばニューヨークでは極端な話、ブックを持って行くのにも「こいつだと稼げるかも」と思ってもらわないといけない。そこまでクオリティを求められないというか、マネージョブといったニュアンスで取られるんですよね。でもヨーロッパでは、それぞれの個性を見つけて、育ててくれる。時代もあるのかもしれませんが、パリとニューヨークでも、ちょっと感覚が違います。

日本も、多少そこに近い印象がありますね。ニューヨークほどではないけれど、ヨーロッパまではいかない。特にいまは、ECウェブサイトでのカタログのようなものが普通になってきているので、クリエイティビティが欠けてきているような気がします。美容学生や若い人がそういう世界から入ってしまうと、想像力が広がらないので難しいですよね。もちろん、ダイレクションでフォーカスしやすいような準備は周りがしてくれるから、できるとは思いますが、将来が不安になるような気がします。

—— ご自身では、将来が不安になるようなことはなかったのですか。

僕自身は、性格もあると思いますが、パリに住んでいるときは不安はなかったですね。なんとかなると思っていました。貧乏生活を経験しているので「最低これだけ稼いでいればいいや」と思っていましたし、「がんばって努力すれば増えていく」とも思っていました。そうして実際に収入が増えていくと、努力が実になることを実感するから、不安がないんです。

逆に収入が下がっても、もうヘアの作り方がわかっていたから、不安にはならないわけです。どんなふうにエスプリを入れてチェックを入れていくと、どういうニュアンスのものができるか。その作品が時代性に合ってるかどうかもわかる。そうしたらミーティングでも、的確な意見を言えるようになる。そういうトレーニングをしてきたから、「櫛とブラシとドライヤーがあればどこでもやっていける」と思えるようになったのだと思います。だから、若いときに痛い思いをしたほうがいいですね。

—— 世界で仕事をしたいというときは、どういうスタンスが必要になってきますか。

たとえば、元野球選手の松井秀喜さんがいますよね。いま活躍している大谷君もそうですが、彼らはホームランバッターじゃないですか。それって、すごいかっこいいスタイルだと思うんです。細かいヒットで確実に一歩一歩進むやり方も悪くないんですが、20代の頃はホームランバッターを目指すほうがいい。

もちろん仕事は仕事なので、スタンダードでカジュアルなスタイルをやったり、細かいこともやるべきです。でも、毎日仕事とは別に作品を作って、「よくこんなこと考えるね。どうやって作ったの?」という、ホームランみたいな作品も常に作ったほうがいいと思います。

カジュアルな作品は「いいね」「かわいいね」という言葉はもらえても、3日、1週間、1年経つと忘れられてしまう。でも、1年経っても思い出すような作品を残していれば、どこかで声をかけてもらえます。

だから、まず取っかかりでは、どーんとでかい印象を残すこと。それを心がけると、自分の良し悪しや向き不向き、何がどう足りないかがわかるから、もっと自分にフォーカスして、鮮明なものを作れるようになります。若いうちは、そもそもそんなに持っていないから、なくすものもない。だからこそできることをやったほうがいい。言葉もそう。当たってくだけてもいいから、やったほうがいい。それが楽しくなれば、あとはもう周りが勝手に盛り上げてくれるし、盛り上げてくれれば始まっちゃうので。

最近は世界を変えている若いスポーツ選手がたくさんいますが、彼らのドキュメンタリーを見ていると、すごい努力をしていますよね。誰だって急にあんなふうにはなれない。何千回も転んで傷を作って、そこから立ち上がってまたやる。その努力を、自分のスタイルで作っていければ最高なんじゃないかと思います。経験値が上がっていくことで認められていく世界だと思うから。

—— ホームランバッターを目指して、人に驚かれるような作品を作っていくこと。そのためにはたくさん経験して、自分なりの努力をしていくことが必要なのですね。HANJEE先生は、お仕事をされるうえでも、いつもそういったことを考えていらっしゃるのですか。

考えていますね。僕のテーマは「驚かす」ということ。「どうやって作ったの?」「どこからこんなアイデア出たの?」と言われるようなことが好きなんですよ。

だから、急に東京に来たり、ロンドンに行ったり、パリに長く住んだり、また東京へ帰って活動したりという自分がすごい楽しかったんです。ヘアでもそうで、驚いてもらえることを心がけて作っています。

—— 今回の作品もそうですが、先生の作品にはとても品がありますよね。

それが僕のスタイルだと、みなさんが言ってくれます。やり過ぎるときもありますが、「考えたことを意識して作っているから品が出てくるんだ」と。だから、「品がある」というのは、うれしく思ういちばんの褒め言葉です。

でもそれは、パリで学んだと思います。自分自身、10代のときは品がなかったんですよ。時代もありますが、両親も共働きで忙しい家庭でしたし、マナーのような点でもおおらかに育てられましたから。

それが、ひとりで歩き始めて、気づいたらパリで仕事をするようになった。向こうでは品のある人が極端にかっこいいんですよ。言葉遣いもそうですが、はじめの頃は「ダメだな」と思うことがたくさんありました。

「品」とは自分自身から醸し出されるものなので、絶対に作品に出てくる。それがわかっていたから「品」をテーマにしていたし、それがスタイルになってきたんでしょうね。

—— 品というものはどの国の人も感じることですから、世界中からお仕事のご依頼があったのだと思います。HANJEE先生は、次に何か考えていらっしゃることはあるのでしょうか。

いまは試行錯誤しています。何をすれば驚いたり、何をしたら刺激を受けるか。また、いま自分には何が求められていて、何をやっていかなければならないか、毎日考えます。

でも、美容というのはとても面白い仕事ですし、そう思えるのは、面白い人たちがいっぱいいるから。たくさんの面白い人やものから影響を受けてきましたね。常にポジティブに考える自分がいると、運もよくなると思ってきました。

—— 実力があるから運もついてくる。そこに至るまでは大変だったと思いますけれど。

でもね、実力って自分には見えないものであり、人が評価するもの。人に評価されるから仕事が来ますしね。

でも、最終的にはやっぱり自分で自分の実力を実感したい(笑)。常に目の前にすごい人がいて、いつも「あいつには負けるわ」「悔しいな」と思ってきましたから。

だから、そういう人たちの真似をしていましたね。話し方、身振り素振り、生き方。真似は自分を磨いてくれたと思います。真似をしても、絶対に自分のスタイルになっていきますから。余計なものは入らず、いいものだけが自分に残る。ヘアもはじめは真似ばかりだけど、作る人が違えば最終的にちょっと違うものになる。まったく同じにはならないから、真似るということはいいことだと思います。

—— 貴重な体験談ですね。最近は、美容学生でも海外に出たい人や、ヘアメイクを目指す人が多くなってきましたが、何かアドバイスはございますか。

我々は国際人と仕事をするので、英語を話せるか話せないかで大きな違いがあります。日本人は1を言えば100理解する人種なので、それを必要とするアーティストは世界中にいっぱいいますが、第一歩が「英語が話せる」ということ。できれば2ヶ国語ができるといいですね。日本語と英語と、何かもうひとつ。それは大きなメリットですし、大きく人を変えます。

あとは、モデルに対して誠意をもって接すること。ヘアに関してだけでなく、身の回りのお世話もなんでもやる。そうすると、ショーにそのモデルが来たときに「HANJEE, Hey!」となるわけです。有名なモデルがそうやって声をかけてくれると、周りは「HANJEEってうまいんだな」と思うし、別のモデルからも声がかかります。

そういうふうに周りに味方を増やしていくのも方法ですよね。僕は言葉ができなかった分、見るもの、聞くもの、感じるもの、すべてに対しての意識が高くなって、研ぎ澄まされていきました。そうしてだんだん言葉もできるようになって、楽になってきた頃には、いつのまにかモデルもデザイナーも「HANJEEがいるから大丈夫だ」となっていました。学生さんたちにもそんなふうになって欲しいと思います。

—— なかなか真似できないことも多いかなと思うのですが、学生さんにもすごく参考になりそうなお話をたくさんおうかがいしました。

僕ができたんだから、みんなできるよ。もちろん、がんばりは必要だけどね。へこたれないことです。毎日が反省、毎日が努力。でも、いまとなっては、努力してよかったなと思っています。我慢ですね。それは、いくつになっても同じです。自分も「次はどんなことをやらなきゃいけないか」ということがテーマですから。

—— 毎日が反省で、毎日が努力。でもそんな美容の道が面白いんですよね。ドラマチックでワクワクする素敵なお話を、ありがとうございました。

「SUPER BIDO」は、初代山野愛子が提唱した「美道5大原則」の理念にのっとり、美容の理論と実践を通して、変わりゆく多様な文化の足跡を残すべく立ち上げたプロジェクトです。世界で活躍するアーティスト、山野学苑OBや在校生の作品のほか、同学苑で行っているさまざまな取り組みをご紹介しています。また、各界で輝くさまざまな人々を「美容」というキーワードで繋ぎ、盛り立てていくことで、美容業界の発展に貢献することを目的としております。

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