Aiko Yamano

SUPER ICON

日本美容界の初代アイコン・山野愛子の軌跡と名言

諦めちゃいけないの、どんなときでも。投げ出さず、諦めず、心から願って努力すること。だから、“思えば叶う”なんですよ。

―山野愛子

毎日前進してなくっちゃ、つまらないじゃありませんか。あたしは、いつでも新しい気分で新しいこと考えてるの。
人間いつも“本日誕生”の気持ちを忘れちゃいけないと思いますよ。

―山野愛子

外見の美しさを作るいちばん大事な源泉は、その人が自分が美しくなることを心から望み、そして心が明るく美しくなることなんです。ですから、美容というのは、「人生をどう美しく過ごすか」「人生にどう美を発見するか」という、いわば人生の美学、美容の哲学にまで発展していくべきだと思うんです。

―山野愛子

技術は“盗むもの”から“教えるもの”にならなきゃいけません。いいことは一人でも多くの人に広めて、みんなが美しくなることが必要ですもの。

―山野愛子

会うたびに新しい魅力を感じさせるようでありたい、って思うんです。人間は、付き合えば付き合うほど、新しく惹かれ合うものを持ちたいと思うものでしょ。

―山野愛子

なんにも物のない時代でも、どうしたら美しくいられるだろうか、って考えたんです。どんな時代だって、その気になりさえすれば、女は常に美しくいられるんですよ。

―山野愛子

1909(明治42)年

0歳

1月20日、東京築地にて出生。

1923(大正12)年

14歳

関東大震災に遇う。

1925(大正14)年

16歳

上野・志田美容学校で6ヶ月学んだ後、

向島で御結髪「松の家」を開業。

1927(昭和2)年

18歳

松の家を拡張し、「美容の殿堂・山野美粧院」と改称。

1934(昭和9)年

25歳

日本橋蠣殻町に山野美粧院と講習所開設。

1935(昭和10)年

26歳

中谷治一と結婚。

1936(昭和11)年

27歳

長男・正義を出産。

1938(昭和13)年

29歳

銀座に美容所を開設。

1939(昭和14)年

30歳

両国に美容所を開設。

1940(昭和15)年

31歳

浅草に美容所を開設。

1944(昭和19)年

35歳

信州・辰野へ疎開。

岡谷に美容所を開設。

1945(昭和20)年

36歳

戦災で全美容所を焼失。

疎開先から杉並へ引き上げる。

1946(昭和21)年

37歳

中野に美容所、美容講習所を開設。

1948(昭和23)年

39歳

講習所を千駄ヶ谷に移転「国際山野高等美容学院」と改称。

浅草に美容所を開設。

1949(昭和24)年

40歳

理美容師法制定、厚生大臣指定「財団法人山野高等美容学校」となり、

校長に就任。

1950(昭和25)年

41歳

渡米してマリネロ美容学校・リノー美容大学高等研究科を修了する。

1954(昭和29)年

45歳

日本美容師総連合会会長に就任。

山野高等美容学校が学校法人認可。

1957(昭和32)年

48歳

アメリカと欧州83日間美容行脚を行う。

1959(昭和34)年

50歳

ミス・インターナショナル世界大会の審査員に、この年より毎年参加。

1960(昭和35)年

51歳

厚生大臣から公衆衛生向上尽力により表彰。

1961(昭和36)年

52歳

ロサンゼルスに「ヤマノ・ビューティ・カレッジ」開設。

ハリウッド・プロフェッショナル・スクール卒業。

1966(昭和41)年

57歳

銀座に山野総合美容会館開設。

1967(昭和42)年

58歳

藍綬褒章を受章。

1971(昭和46)年

62歳

全日本美容講師会会長に就任。

「山野流着装教室」創立、宗家となる。

(株)ヤマノビューティ・メイト設立、社長に就任。

1975(昭和50)年

66歳

美道(髪・顔・装い・精神美・健康美の五大原則)を提唱。

1978(昭和53)年

69歳

「聖ハサミ観世音菩薩」開眼大法要を増上寺にて営む。

全日本美容講師会着付師範会総帥に就任。

1980(昭和55)年

71歳

勲三等瑞宝章を受章。

1984(昭和59)年

75歳

NYカーネギーホールで、最初のビューティ・ショーを開催。

1991(平成3)年

82歳

夫、治一死去。

1992(平成4)年

83歳

「山野美容芸術短期大学」を設立、初代学長に就任。

1995(平成7)年

86歳

7月31日、東京にて死去

山野愛子との思い出

桂 由美

Yumi Katsura

1965年日本初のブライダルファッションデザイナーとして活動開始。日本のブライダルファッション界の第一人者として業界を牽引し、世界各国30以上の都市でショーを行い、「ブライダルの伝道師」とも称される。1993年に外務大臣表彰、2019年には文化庁長官表彰を受賞。

初代山野愛子との思い出をお聞かせください

Y

私が日本初のブライダルファッションデザイナーとして歩み始めて10年経った頃、当時は結婚の式服は90%が和装でしたが、やがてウェディングドレスが式服となる時代がくる。その時色直しにきものを着てもらうためには、クイックチェンジが必要になると考え、クイックチェンジコンテストを企画しました。

このとき著名な美容界の先生方はみな反対をされ、審査員を辞退されましたが、ひとり山野先生だけが「あなたの言うような時代になるわ」とおっしゃって全面協力をしてくださり、新藤愛子先生が見事優勝されました。前述のことは一例ですが、私は新しいことをブライダル界に提案するときは、たいてい山野先生に相談してきました。そして山野先生の提唱される美道、ヘア、メイク、ファッションの外形美に加えて、その人のもつ心の美しさまで、トータルに表現するということは、私の専門であるブライダルにもぴったり当てはまる考え方でした。それはつきつめれば、日本の女性美の追究ということになります。日本の伝統美を基盤に、新しい試みを次々に発表していらっしゃるジェーン先生は美道の立派な後継者です。

小堺一機

Kazuki Kosakai

千葉県出身。「欽ちゃんのどこまでやるの!?」などで人気を博し、1984年から「ライオンのいただきます(のちの「ごきげんよう」)」の司会を32年間続ける。アスリートをはじめ各界のトップランナーの「声」が聴き放題となる音声サービス「NowVoice(ナウボイス)」に参画、テレビ、ラジオ他、舞台、ライブ、講演会など幅広く活躍中。

初代山野愛子はどのような女性でしたか

K

インターネットもまだ無い時代に、海外から最新の情報を日本に届け、なおかつ日本人の美しさを融合させる工夫をなさった、本物の〝モガ〞だと思っています。勝アカデミーに校舎、ホールを貸してくださった!感謝しております。

小堺一機さんにとっての「美道」とは

K

水のごとく生きる。高きより低きに流れ決して無理せず、どんな形にもなる。熱くも冷たく、硬く、柔らかい。そんな人になりたいと思っています。

中村玉緒

Tamao Nakamura

1953年映画「景子と雪江」でデビュー。2001年から京都市特別観光大使を務め、2011年「京都名誉観光大使」に就任。持ち前の明るいキャラクターが若者層にも受け、世代を問わず幅広いファンを持つ。テレビのバラエティ番組などでも活躍し、現在InstagramやYouTubeも配信中。

初代山野愛子はどのような女性でしたか

T

まぁ素晴らしい女性でした。すごくお綺麗な方で。変な言い方かもしれませんが、女性なのに男らしいというか、気持ちの良い仕事をされていた、という感じです。当時、愛子様がプロデュースされた〝ディナーショー〞にも呼んで頂いて感動した事を今のように覚えております。女性も憧れる女性。お孫さんである現理事長の山野愛子ジェーン様も、その意思を継がれ、素晴らしいことと思っております。

中村玉緒さんにとっての「美道」とは

T

自分の生活を自分で決めるように、生きていくことができるようになりました。そして、『今日の事は今日で忘れる』というのが私の生き方で、それが私の〝美道〞になりますでしょうか。明日また新しい自分で生きる為に。

ジュディ・オング

Judy Ongg

歌手/女優/木版画家。台湾生まれ。日米合作映画「大津波」でデビュー。1979年「魅せられて」で日本レコード大賞他、数々の賞を受賞。木版画家として日展で14回入選、2005年には特選を受賞する。チャリティーコンサートを含めボランティア活動にも取り組み、ワールドビジョン親善大使、日本介助犬協会サポート大使、ポリオ根絶大使を務める。2018年にはシングル「ほほえみをありがとう」、Jazzアルバム「Always」(日本コロムビア)がリリースされた。

初代山野愛子はどのような女性でしたか

J

笑顔がとっても素敵で、私はまだティーンエイジャーでしたが、当時トップを走っているお姿がかっこよかったです。メガネの下から見えるメイクが品があっておしゃれ。メイクをしていただいた時の手がフワフワな真綿のように柔らかかったのが印象的でした。私が17歳の時、「チャームで踊ろう」という曲の企画の記者会見の時、愛子さんが振付をしてくださり発表したのは今でも鮮明に覚えています。

ジュディ・オングさんにとっての「美道」とは

J

お野菜・プロテイン7 :お肉・お魚3のバランスの食事を心がけています。内面的には、悩んだり、憎んだりすると顔がくすんで見えてしまうので、よく笑い、くよくよしないことが大切だと思います。